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【ルイ14世の宿敵レオポルト1世】帝国領土を守り抜いた平和主義者

2020/07/23
 
レオポルト1世とマルガリータ
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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

ハプスブルク家にうまれたレオポルド1世思いがけず神聖ローマ皇帝となった彼の治世は、フランス国王ルイ14世との対立に終始するものでありました。三十年戦争で衰退した領土を受け継ぎ、全盛期のフランスとオスマン帝国に圧迫されて苦戦を強いられるも、オスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大しました。この記事では、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築いた名君レオポルト1世をご紹介します。

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レオポルト1世とは

思いがけず帝位についた皇帝

レオポルト1世

生まれた当初、レオポルトの継承権はなかなかに遠いものでした。当時の皇帝フェルディナント3世は次の後継者として長男を『フェルディナント4世』として、ボヘミア王、1647年にハンガリー王、そして1653年にドイツ王につけていたましたし、3男であったレオポルトにまわってくるかは運次第だったのです。しかし1654年、継承するはずだったフェルディナント4世が急死してしまいます。

そこでフェルディナント3世の4男で聖職者だったレオポルトが、突如『レオポルト1世』としてハンガリー国王として即位することになりその後に帝の座に着くことが決まったのです。

 

空位の神聖ローマ皇帝位を狙ったのは、フランスルイ14世

Louis XIV

ハプスブルク家が世襲してきた神聖ローマ皇帝位ですが、父帝フェルディナント3世の死後は1年と少しの間空位となりました。そこにつけいり皇帝位を狙ってきたのがフランス、太陽王と呼ばれたルイ14世です。ルイ14世は経済力をにかかえて、ありとあらゆる方法を駆使し皇帝の座を射止めようとしました。しかし選帝侯たちの反対もあり終的にルイ14世が皇帝位につくことはありませんでした。かといってレオポルト1世も簡単に『皇帝位』を取り戻せたかというとそうではなくフェルディナント3世の死後、選帝侯たちへハプスブルク家から莫大なお金がながれた結果でありました。

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レオポルト1世の治世

宿敵ルイ14世との対決

フェリペ4世の娘たち

ハプスブルク家といえば『婚姻外交』ですが、当初レオポルト1世の結婚相手とされていたのはスペイン国王フェリペ4世の娘マリー・テレーズでした。しかしマリーはフランスのルイ14世のもとに嫁ぐことになり、レオポルト1世の元には異母妹であり姪のマルガリータが嫁ぎました体裁上は、ルイ14世と義理兄弟の関係になった形でしたが、レオポルトと彼の争いは続きました

ルイ14世と、レオポルト1世

そもそもレオポルト1世は平和主義者であり、争いは好まない性格でしたが、ルイ14世とは皇帝位しかり領土問題しかり何かと対決することになります。妃マルガリータは6人の子供を産みますが、産褥で21歳の若さにして亡くなってしまいました。1665年スペイン国王フェリペ4世が亡くなると、ルイ14世は妻マリー・テレーズ)がスペイン王女だったことを理由に、スペイン領南ネーデルラント (現在のベルギー)の継承権を主張、これにて『南ネーデルラント継承戦争』が勃発しました。

ネーデルラント継承戦争

結果どうなったかというと、危機感をいだいたオランダがイギリス・オーストリア・スペイン両ハプスブルク家と同盟を結び、フランスは取りつく島もなく、またもやレオポルト1世に敗北を喫したのでした。

 

第二次ウィーン包囲

第二次ウィーン包囲網

平和主義者のレオポルトにまたもや襲い掛かったのが、1683年オスマン帝国による『第二次ウィーン包囲網』です。レオポルト1世はリンツへと避難し他のキリスト教国に救援をもとめました。結果ウィーンはポーランド国王ヤン・ソヴィエスキー率いるキリスト教連合軍によって、危機から逃れることができました

カルロヴィッツ条約

第二次ウィーン包囲は、16世紀後以来徐々に衰退していたオスマン帝国のヨーロッパにおける軍事的優位を崩す結果となりました。また第二次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約に至る16年間の戦争によってオスマン帝国の版図はバルカン半島および東ヨーロッパにおいて大幅に後退し、オーストリアとロシアがこの方面における覇権を握るきっかけを作ったといわれています。

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レオポルト1世について知っておきたい知識

学問に熱心で、音楽を愛した

レオポルト1世

レオポルト1世は幼少の頃から学問に熱心でした。彼は学習能力が高く、ラテン語、イタリア語、スペイン語を流暢に話したといいますが、フランス語は好まず宮廷で使うこともありませんでした。古書学、歴史学、文学、自然科学、天文学を学ぶほか、音楽にも興味を持ち父の音楽的才能を受け継いでいました。

次々勃発した戦争のなかで、皇帝を慰めたのが音楽でありました。ハプスブルク家の皇帝はバロック音楽愛好家としても知られており、とくにレオポルト1世は教会音楽にとどまらず、アリアやバレエ音楽まで多岐にわたり好んだといいます。

 

レオポルト1世の晩年

レオポルト1世とエレオノーレの結婚(19世紀画)

性格は温厚で、マルガリータとの結婚も政略婚にしては穏やかなものでありました。ただ自称『カトリックの守護者』を主張したハプスブルク家にうまれた彼は宗派に関する問題で政治的妥協を一切認めなかったという話も残っています。マルガリータが早くに亡くなってしまったため、そのあとに2人の妃を迎えています。レオポルト1世は1750年、戦争のさなかこの世を去りました。享年65歳。

帝位とボヘミア王位はヨーゼフ1世が継承、カールはスペインでフェリペ5世と戦ったが苦戦続きで、1711年にヨーゼフ1世が早世した後に皇帝となりスペイン王位を断念しました。スペイン継承戦争を通してハプスブルク家はスペインを失いますが、東欧で勢力を伸ばし大国に成長へと成長していったのでした。まさかの展開で皇帝位につき、フランスの太陽王に苦しめられながらも蹴散らし領土を守り抜いたレオポルト1世。才智に溢れていたのにくわえ、強運にも恵まれていたのかもしれません。

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参考文献

  • https://www.britannica.com/biography/Leopold-I-Holy-Roman-emperor
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_XIV
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Leopold_I,_Holy_Roman_Emperor
  • 図説ヨーロッパ歴史百科 (系譜から見たヨーロッパ文明の歴史) ピエール・ヴィダル=ナケ歴史監修
  • ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した700年王朝 新人物往来者 編
  • ハプスブルク帝国 著 加藤雅彦

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バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

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