【マーガレット王女と夫アンソニー】駆け落ち同然で結婚した王女のその後

イギリス王室

当該人物となったのは、エリザベス女王の亡き妹マーガレット王女王室での暮らしに辟易としていた彼女は、上流階級人との結婚を勧める母と姉を頑なに拒否しました。

そして密かに交際していたタウンゼント大佐との結婚を認めなかった家族に反抗して、半ば勢いで一般男性のアンソニーと結婚するに至ったのです。当のアンソニーは王女に恋をしていたというよりは、むしろ王室が与えてくれるであろう地位の方に目が眩み、愛情は二の次でありました。

家族が反対するなかで強行された結婚は最終的にどうなったのかこの記事では王室からの駆け落ち婚で世間を賑わせたマーガレット王女のその後についてふれていきたいとおもいます。

この記事のポイント
  • 王室人としてはじめて一般男性と結婚した、マーガレット王女
  • 子供に恵まれるも、お互いの意思の強さはマイナスに働きお互いに浮気へ
  • 王室では400年ぶりの離婚となるも、その親交は死ぬまで続いていた
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アンソニーとの結婚に至るまで

エリザベス女王の妹であるマーガレット王女がアンソニーと結婚したのは、1960年5月のことでした。王女の結婚は華々しく全世界へと報道されましたが、このロイヤルウエディングは、けして順調なものとはいえませんでした。

後にスノードン伯爵と呼ばれることになる、アンソニー・アームストロング-ジョーンズは、400年以上の間で国王の娘と結婚した最初の「一般人」でありました。 しかし周りを無視して進めた彼らの結婚には波風たつことが多く、不仲の噂は早くも1967年には広く知られるようになりました。

1970年代までには別居をしていたといわれ、1978年には、離婚を発表しました。

伴侶選びに慎重になる王室

当時のイギリス王室は、『離婚』に対してとても厳しい態度をとっていました

マーガレット王女は、父ジョージ6世の秘書であったピーター・タウンゼント大佐と大恋愛をしますが、彼に離婚歴があることから王室はふたりの結婚を認めずふたりの仲は公然と引き裂かれてしまいます。タウンゼント大佐との恋が終わった後、マーガレット王女は『イギリスで最も魅力的な独身女性の一人』として引き続き注目を集めていました。

密かに近づいていったふたり

1958年に初めて会ったとき、二人はすぐに意気投合したといいます。アームストロング=ジョーンズがマーガレットの写真撮影を依頼されたのは、数ヶ月後のことでした。誰も二人の関係を知りませんでしたし、噂が流れることもありませんでした。

王女は彼のスタジオで秘密裏に彼に会っており、パーティで一緒になったとて、マスコミは誰が王女と深い関係にあるのかまでわかっていなかったのです。どちらかというと、彼らは上流階級であったり、王女にふさわしい身分の人を追っており、一般男性であるアンソニーのことは全くの予想外でありました。

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王室の反対を押し切っての結婚

1960年2月26日に、マーガレット王女の婚約が発表されました。

これはタウンゼント大佐が、新たな恋人との結婚を発表する少し前のことでありました。実際のところ、大佐が結婚することが彼女の耳へと入り、自らも先へ進んでいることを世間へアピールするため結婚を急いだともいわれています。

このニュースは多くの人を驚かせ、王女が裕福な貴族と結婚することを望んでいた王室と廷臣たちにとってはとくに受け入れ難いものでありました。しかしアンソニーは、(少なくとも一見) 非常に魅力的で礼儀正しく、振る舞い方も心得ていました

一時的な安堵

本音かどうかはおいておいても、アンソニーは女王陛下や、皇后に対して気に入られる術を身につけていたのです。タウンゼント大佐との仲が壊れたことに責任を感じていていた女王は、妹が今度こそ幸せになることを望んでおり、マーガレット王女が新たな相手を見つけたことに一時は安堵しました。

また国民からも最終的には支持をうけ、1960年5月6日、このカップルは王室の結婚式として初めてテレビ中継されました。少なくとも、3億人以上がこの結婚式を目撃することになったのです。

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間も無くしてうまれた亀裂

マーガレット王女と子供たち

2人は新婚旅行から戻ったのち、ケンジントン宮殿に引っ越しました。最初の数年間はすばらしいものだったそうです。アンソニーは、『スノードン伯爵』の称号を授かり、1961年には第一子のデイビッドが誕生しました。

長女サラが生まれたのは、ふたりの関係が順調であった3年後でありました。二人には多くの共通点があり、よく冗談が交わされていました。彼は彼女のスピーチを手伝い、最初の数年間は、二人はとても仲が良かったのです。

しかし、二人ともセレブのような生活を謳歌していたのですが、「主役になりたい」 という強い自我が原因で、娘が生まれてすぐに結婚生活に摩擦が生じたといわれています。どちらも意志が強く自分の道を突き進むことに慣れていたので、衝突は避けられませんでした。しかしその亀裂には、そういった個性のぶつかり合いだけが影響していたわけではありません。

夫は仕事ばかりで

悲恋のマーガレット王女

マーガレット王女が想像していた結婚は、アンソニーのそれとは全く違っていました。

彼の親は離婚していましたが、マーガレットの両親 (ジョージ6世)と、姉 (エリザベス女王)の結婚はとても幸せなものでした。それを見ていた彼女は、家族とはそういうものであり、夫が常に近くにいてくれることを期待していたのです。

しかし、アンソニーを突き動かす最大のものは、家族ではなく「仕事」でありました。彼はケンジントン宮殿の地下に作業場を持っていました。彼の仕事へのコミットメントを理解してはいたものの、マーガレットはそれが結果として彼女から彼を奪うことになるとは思いもしませんでした

お互いに浮気へと走り

ロイヤル・ウェディングと呼ばれるこの結婚が崩れ始めたのは、長女が誕生日を迎えた後のことです。アンソニーは写真家としての仕事で留守をしている間に浮気を始めました。

またそれを察してか、満ち足りないマーガレット王女も夫の友人であったアンソニー・バートンや、18歳年下の造園家ロディ・ルウェリンと関係を持つようになります。

アンソニーは多くの不貞を行い、1969年にはジャクリーン・ルファス・アイザックス夫人と不倫関係に陥ります数々の不和により心を悩ませていた王女でしたが、これはさらに彼女を大いに動揺させることとなりました。

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離婚の発表

マーガレット王女も夫以外の人物と関係をもっていたわけですが、それは心からのものではなくまた復讐でもなく、王女はただ「自分が望まれている」のだと実感したかっただけであるといわれています。数年間の不倫の黙認が続いた後、ふたりは1976年に別れることになります。

離婚が発表されたのは、その2年後のこと

王室の人間が離婚するのは1540年に散々情事を重ねたヘンリー八世以来初のことで、当時は大事でありました。「マーガレット王女、スノードン伯爵は結婚生活を正式に終わらせることに同意しました。従って、王女殿下は必要な法的手続きを開始します」と声明が出されました。

離婚後のふたり

晩年のマーガレット王女

多くの問題を抱えたふたりでしたが、離婚後は2002年にマーガレット王女が亡くなるまでその親交は続いていたといわれています相変わらずアンソニー (スノードン伯爵)の恋愛関係は複雑なままでしたが、離婚の苦しみが終わるとそれは揺るぎない友情へと変わったのでした。

離婚が成立した直後の1978年、アンソニーは映画監督の妻だったルーシー・リンゼイ・ホッグと結婚、その翌年には息子が生まれましたが、彼には別に婚外子がいたことがわかり2000年に離婚しています。そして、マーガレット王女と結婚する直前に娘であるポリー・フライが生まれていたことものちに明らかとなりました。

2004年に行われたDNA鑑定で彼が父親であることが明らかになりましたが、アンソニーはそれについて「わからない」と白を切り通したのでありました。男性も女性も関係なく多くの愛人を作ったアンソニーも、2017年1月13日金曜日86歳で亡くなりました。

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まとめ

晩年のマーガレット王女

アンソニーは不埒な息子として周囲にみくびられた経験があることから、母親から注目されたい、周りから認められたいという思いが常にありました。一説には、「出来の悪い息子といわれたが、王女と結婚したのは自分である」といった動機も、結婚に踏み切った理由の中にあるといわれています。

そして思惑通りか、彼は結婚後「スノードン伯爵」という地位を手にれ、離婚後もそのステータスを保持ながら生きていくこととなりました。それは女王の妹であるマーガレット王女に地位をあわせるために与えられたものでした。

王女との苦しい結婚生活やプライベートばかりが報じられていましたが、アンソニーは生涯を通して障害者のために情熱的な活動を続けていた才能ある写真家としても人々の心に記憶されています。しかし、やはり王族との関係のほうが注目を集めてしまうものかもしれません。

アントニー·チャールズ·ロバート·アームストロング·ジョーンズは、「女王の魅惑的な姉妹と結婚し、離婚した男」として歴史に刻まれることとなったのでした。

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