Wise man learns from History.

【ルイ・アントワーヌ】フランス革命後 激動の時代を生きた皇太子

2020/09/06
 
ルイ・アントワーヌ、アングレーム公
この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

1830年に退位したシャルル10世の息子であり、フランスの皇太子 ルイ・アントワーヌ (アングレーム公)処刑されたルイ16世マリー・アントワネット間にうまれ、フランス革命を生き残った唯一の子マリー・テレーズと結婚し、一時は過激な王党派としてナポレオン支持者を弾圧しました。父が退位するとわずかながらも、形式的にフランス王をつとめたので『ルイ19世』と呼ばれることもあります。

フランス 7月革命

1815年の王政復古で復活したブルボン朝ですが、フランス7月革命により再び打倒されてしまいます。そしてブルジョワジーの推すルイ・フィリップが王位につき、一家はまたもや亡命生活を送ることとなりました。この記事では、フランス革命後の激動の時代を生きたルイ・アントワーヌ (アングレーム公)についてみていきたいとおもいます。

スポンサーリンク

ルイ・アントワーヌ (アングレーム公)

シャルル10世の長男

ルイ16世 (ブルボン家 家系図)

1775年8月6日、フランスのヴェルサイユ宮殿で生まれたルイ=アントワーヌルイ16世の末の弟であるシャルル=フィリップ、アルトワ伯 (のちのシャルル10世)と、サヴォイのマリー・テレースの間の長男としてうまれました。彼はルイ = アントワーヌは父方の叔父にあたるルイ16世の治世中に生まれフランス王は甥にアングレーム公の名を与えられました

 

妹は早逝、弟はナポレオン支持者に暗殺される

ルイ・アントワーヌ (アングレーム公)

ルイ・アントワーヌ (アングレーム公)のあとには3人の弟妹が生まれました。しかし妹ソフィーとマリーは幼少期に亡くなり、唯一成長したのは弟チャールズ・フェルディナンド (ベリー公) だけでした。彼は妃をもうけ2人の子供が成人しますが狂信的なナポレオン支持者により、1820年2月13日、オペラ座から出てきたところを暗殺されてしまいます。享年42歳、ルヴェルは1815年のパリ条約の責任はブルボン家にあると考え、血筋を断絶させることを狙ってのことでした

スポンサーリンク

きたるフランス革命の波

シャルル・フィリップ一家の亡命

ボードガール城 (フランス)

ルイ・アントワーヌと弟シャルル・フェルディナンド (ベリー公) は、ヴェルサイユ宮殿から数マイル離れたシャトー・ド・ボーアールに建てられた城で、家庭教師 アルマンド・ルイ・ド・セランから教育を受けました。 1789年7月14日のバスティーユ襲撃がおこるとルイ16世はブルボン家の血を絶やさぬよう、弟のシャルル・フィリップと家族にフランスを去るよう命じましたれは皇太子としてのスペアを確保するためでもあり、情勢的にみて、諸外国のなかには内密でブルボン家を保護するところもありました。1789年7月17日、シャルル・フィリップと妻のマリーは2人の息子をつれて、マリーの母国サヴォイへ向け出発しました。

 

亡命は成功、2年後にはルイ18世も国外へ

ルイ16世の兄弟 (ルイ16世の弟たち 左がアントワーヌ公の父シャルル)

いち早く動いたこともありシャルル10世一家の亡命は成功します。ルイ・アントワーヌは最初サヴォイで家族と亡命生活を送り、その後ドイツ、そして最終的にイギリスに渡りました。亡命中、ルイ・アントワーヌの父シャルル・フィリップはフランス王室の擁護者を求めてヨーロッパの宮廷を訪れました。1792年、ルイ・アントワーヌは、彼のいとこであるルイ・ジョセフの軍であるコンデ軍に入隊しました。そして2年後、ルイ16世の弟であるルイ・スタニスラス(未来のルイ18世)もフランスの亡命に成功しました。

スポンサーリンク

伯父ルイ16世の悲報

生き残ったのは、王女ひとり

捕まって悲嘆に暮れる王妃 マリー・アントワネット

最後までフランスにとどまった伯父ルイ16世でしたが、1791年「これ以上はもたない」とばかりに急ぎ亡命を企てますが、国境近くのヴァレンヌで捕まってしまいました。その後、ルイ16世とその家族たちは幽閉され、フランス王ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、妹のエリザベートはいずれも最終的にギロチンによって処刑されてしまいます。父親の処刑によってルイ17世となった10歳の息子ルイ・シャルルも結核で獄死、唯一生きた残ったのはルイ16世の娘マリー・テレーズだけでした。この王女こそが、ルイ・アントワーヌの妻となる女性です。

 

諸外国の援助を受けて、亡命生活

ブルボン家 王位継承権

ルイ16世の息子、王位継承権1位だったルイ・シャルルの死後伯父ルイ・スタニスラスに王位継承権がうつります1795年の後半、20歳のルイ・アントワーヌは、フランスのヴァンデで王党派を蜂起させようとしますが失敗。1797年に彼はオーストリア軍に入隊を希望しますが、フランスとの争いによるオーストリアの敗北により、逃亡を余儀なくされました。前ロシア皇帝のポール1世の保護により、ルイ・スタニスラスは金銭的な援助を受けることができました。ポール1世の保護の下、コートー(現在ラトビアで)のミッタウに避難しエルガヴァ宮殿で、ルイ・スタニスラスはヴェルサイユ宮殿の華やかさや式典を再現しようとしました。

スポンサーリンク

生き残った王女、マリー・テレーズ

人質交換で、フランスからオーストリアへ

マリー・テレーズ (マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ)

1795年唯一助かったルイ16世の娘マリー・テレーズは、人質交換で投獄から解放されていました。母の実家でもあるウィーンに連れて行かれ、そこではいとこでハプスブルク家のフランツ2世が神聖ローマ皇帝として君臨していました。王女の様子を気にかけていた伯父たちのはからいもあり、1799年5月、マリー・テレーズはウィーンを発ち、ルイ・スタニスラスがエルガヴァ宮殿に亡命するのに伴いました子供がいなかったスタニラス (ルイ18世)は、姪のマリー・テレーズがいとこのルイス・アントワーヌと結婚することを望みました

 

伯父 (ルイ16世の弟) たちとの合流

The_French_Royal_family_in_1823

ルイ・スタニラスはそれが両親が望んでいることだと説得しマリー・テレーズいとこであったルイ・アントワーヌとの結婚に承諾しました。結婚式は1799年6月10日、ジェルガバ宮殿で行われた。2人の間に子供はおらず、幸せだったかどうかは不明ですが……、過激な王党派グループを率いたマリー・テレーズに彼は少なからず影響を受けていたといいます。 1814年4月、ナポレオン1世の失脚後、フランス上院はブルボン家をフランス王座に復位させルイ・スタニスラスは正式にルイ18世となり、ルイ・アントワーヌとその妻マリー・テレーズを含む王家はフランスに戻ることができました

スポンサーリンク

フランス、ブルボン王朝の復活

ルイ16世の末弟、シャルル10世が即位

シャルル10世

1824年9月16日に国王ルイ18世が死去すると、弟シャルル=フィリップに代わってシャルル10世として即位しました王の長男ルイ=アントワーヌが王位継承者のフランスの皇太子となり、マリー・テレーズは皇太子妃となりました。しかし数年のうちに、反君主主義の感情が再び高まっていきます。シャルルの君主世への固執は、労働者階級と中流階級の多くのメンバーを疎遠にしていきました

7月革命 (7月革命を描いた絵画)

これが1830年7の月革命につながり、1830年8月2日、国王シャルル10世はフランス王位を退位せざるを得なくなりました。ルイ・アントワーヌはわずかの間、フランス王ルイ19世を名乗りましたが、ャルル10世は自分の孫アンリ (ベリー公の息子) を後継者に指名します。復活したと思われたブルボン王朝でしたが、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップが1830年8月9日王位につき一家はまたもや亡命生活を送ることとなりました

スポンサーリンク

あとがきにかえて

ルイ・フィリップ

ブルボン家の支流であるオルレアン家の息子ルイ・フィリップが即位すると、シャルル10世、そして息子のルイ・アントワーヌ、マリー・テレーズはベリー公の遺児 ルイーズとアンリを抱えて、またもや亡命生活を送ることになりました。諸外国はフランスの暴走にかき回され、オーストリア君主フランツ1世は『神聖ローマ帝国』を失い、あらたに『オーストリア皇帝』を名乗ることとなりました。彼の招きでプラハ城に移った一家でしたが、1835年にフランツ皇帝が死去すると、ゴリツィア近郊のヨハン・バプティスト・コロニーニ伯爵の邸に移りました

シャルル10世

シャルル10世は1836年にゴリツィアで79歳でコレラで死亡その8年後に息子のルイ・アントワーヌもゴリツィアで68歳で亡くなり、2人はコスタンジェビツァ修道院に埋葬されました。マリー・テレーズは夫より7年長生きし、1851年10月19日、オーストリア・ウィーン郊外のフロフスドルフで72歳で逝去。2人の間に子供はいませんでしたが、マリー・テレーズは姪と甥の母親代りとなった惜しみなく愛情を注ぎました亡命の身とはいえ、シャルル10世は晩年「孫たちに囲まれて、幸せだ」と口にしていたそうです。国によっては親族同士で玉座の奪い合いがおこり、家族が憎み合って亡くなることもありましたので、家族が一緒になり、最後を穏やかに迎えられたのはある意味でささやかだけど大きな幸せでもあったのかもしれません。マリー・テレーズについてはこちら (【恨みを捨てたマリー・テレーズ】フランス革命を生き延びた唯一の王女)にまとめております。

スポンサーリンク

この記事を書いている人 - WRITER -
バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です